私自身はもともと長崎県長崎市の出身で、同市の民間病院に勤務していた。この病院時代に債務の任意整理、経営交代(個人から個人への承継)、経営交代後の病院の医療法人化などを手がけ、承継していただいた院長個人にのしかかっていた経営のリスクを法人へ転換したところで、私のお役はご免と思い、退職を申し出た。ちょうどその頃、1997年(平成9年)の夏であるが、山口県萩市が移転新築する市立病院の事務責任者を全国で初めて(?)公募しており、面白そうなので、ダメもとで受けてみた。採用試験の関係者には申し訳ないが、ハッタリが効いたのか採用が決まってしまい、1998年(平成10年)4月に民間から公務員へと転身した。鎖国時代の海外との窓口、長崎から明治維新胎動の地、萩へ。住民気質や風土、文化の違いによるカルチャーショックも相当大きかったが、最もインパクトがあったのは、やはり、民間から公務員になったことである。“投下した資本を最終的に利益で回収する”という民間の理屈と構造的に異なる“公務に要する費用を税収で賄う”といった役所の仕事に、良くも悪しくも最初の2年間は目を白黒させながら、移転新築する病院の準備に明け暮れた。2000年(平成12年)4月に新病院をオープンさせたときには体重が10kg減っていたほどである。オープン後も市民の期待が大きくのしかかる中、悪戦苦闘の日々が続いていたが、雇われて3年が経過したとき、市長から「興味深い研修が開催されているようだ。行ってみないか」と促されたのが健康福祉プランナー養成塾であった。地方行政サービスとしての病院事業はどうあるべきか、試行錯誤を繰り返していた時期であったので、今にして思えば、正に渡りに船、大げさにいえば運命的な出会いであった。私が参加した養成塾は2001年(平成13年)7月9日から27日までの3週間に及び、素晴らしい講師陣に恵まれ、生まれてこの方、これほど勉学にいそしんだことはないと感じるほどの“究極の詰め込み教育”を体験し、痛快でさえあった。もちろん、座学だけでなく、議論百出のグループワークなども面白かった。当時の復命書には「地方分権により市町村間競争が激化していくのであれば、特色ある保健・医療・福祉分野のサービスを立案できるスペシャリストの養成は至上命題であり、その養成には最適の塾だと考えられるので、是非とも市の方針として今後、毎年、誰かが参加できるようご配慮をお願いしたい」と書き綴っていた。その後、毎年とはいかないまでも、萩市から数人がお世話になっている。私は、3期生として養成塾で“Think Globally, Act Locally”という考え方とその実践方法を深く学ばせていただいたと思っている。おかげさまで、この学びが私自身のぶれない軸になったと感じている。その後も2001年(平成13年)11月と2004年(平成16年)11月に開催された健康福祉プランナー養成塾フォローアップ研修会や、2010年(平成22年)11月に開催された健康福祉プランナー養成塾(秋季コース)に参加し、都度、新たな刺激をいただいている。さらに、2009年(平成21年)3月に発行された自治医科大学監修「地域医療テキスト」の執筆にも参加させていただき、おこがましくも平成22年7月には養成塾の講師としてデビューした。“グローバルに考え、地域の実情に応じて行動しよう”としつつも、日々、地域医療の現実や行政の限界に直面している私にとっては、養成塾とのこの10年余りにわたる関わりそのものが私を叱咤激励し、私を否応なしに行動に駆り立てる原動力になっていると確信している。養成塾を誕生させ、育んでくれた地域社会振興財団の創立40周年に際して、心からお祝いを申し上げるとともに、深く、深く感謝したい。160萩市民病院事務部長 中 田 祐 広健康福祉プランナー養成塾について
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