ほんの二、三年前まで地域社会振興財団の存在さえ知らなかった私が、40周年の記念誌に原稿を寄せるなんて、不思議な気がしている。延岡市の“命の砦”として全幅の信頼を置いていた宮崎県立延岡病院の医師が次々と辞めて行く。行政と地域の医療従事者だけの努力だけでは限界が来ていた私たちの暮らすまちの危機に住民のチカラで何かできないだろうか。医師が街からつぎつぎと消えていく現実を目の当たりにしながら、行政と協働ではじまった啓発活動だったが、何を何処から始めたらよいのか。苛立ちの日が続いていた矢先に、見せられた一枚のチラシが財団とのご縁の始まりだった。「地域医療を守り・育てる住民運動全国シンポジウム2011」。このタイトルに何かが分かり、何かが始められるかもしれない。ただそれだけを求めて会場の東京秋葉原に行ったことを思い出す。刺激的な二日間だった。全国から集まったいろんな立場の100人余りの人たちは仲間になった。そう実感したのは、テーブルワークで話せばはなすほど、同じ悩みを抱え、そしてナントカ自分達の暮らすまちを良くしたいとの想いが伝わってきたからだ。悩んでいるのは私たちだけでない。頑張ろうとしているのも私たちだけでない。それは大きな勇気と元気を貰った大切な時間となった。指導してくださった自治医科大学の地域医療センター長の梶井英治先生をはじめとするセンターのスタッフの皆さんとの出会いの場をつくってくれたのもこのシンポジウム。梶井先生のやさしい眼差しは、私たちには最大の勇気となった。あの親しみ深い笑顔に誘われるように、今思えば、とんでもないお願いをしたものだと思う。「先生、延岡に来てください。絶対ですよ」眼鏡の奥笑顔が笑っていた。それはただ戸惑われていただけかも知れないが、現実に延岡に来ていただき、講演とシンポジウムに出席していただいた。 梶井先生の話は参加した多くの市民にも大きな衝撃を与え、地域の人々が自分達の街の医療の見方が少し変わり始めてきたように感じた。梶井先生と延岡の関係は延岡市の地域医療アドバイザーに就任していただくことになった。私たちの活動はずっと梶井先生と自治医科大の地域医療センター、そして地域社会振興財団にずっと寄り添ってもらいながら来たという想いが強い。二回目の全国シンポジウムでは、一年前何もわからないまま参加した私たちが「行政との協働」の事例発表することになったし、昨年度ははじめての地方大会の開催地に選ばれるほど、評価をいただいていることに、戸惑いは隠せないものの、少しずつ私たちの自信になってきたような気がする。だからといって、私たちの暮らす延岡の医療環境が好転したわけではない。おそらくこれからも良くなる可能性は少ないと思う。でも、だからこそ街にある医療資源の大切さを知ることができた。その大切な資源をどう守りつづけていくか。これは市民一人ひとりの意識だということを3回のシンポジウムと延岡で開催した地方シンポジウムで学んだような気がする。ある人からの「先端医療として延岡は後進地。でも先進医療では日本の最先端かもしれませんね」の一言は行政と医療従事者と市民が一つのチーム延岡として守り通していくことが、これからの地方の医療のあり方であることを気づかされたような気もしている。延岡には全国初となった地域医療を守る条例がある。市民も含めて「公人」としてのあるべき姿を示しており、これからの地域社会の医療のモデルになるべく、条例を旗印として地域に生きることを覚悟し活動を展開していきたいと思っている。180宮崎県北の地域医療を守る会事務局長 福 田 政 憲すべては地域医療シンポジウムから
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